'94W杯 〜 スクデット 
〜 ユヴェントス退団




 1994年6月18日
 1994 World Cup アメリカ大会 グループ・Gリーグ第1戦 イタリアvsアイルランド 
 バッジョは10番をつけてプレーするも右足のケガをかかえたままで結局 0-1 で
 敗戦。 '74年大会のポーランド戦以来20年ぶりの予選黒星となる
 6月23日
 第2戦 イタリアVSノルウェー ( 1-0 )
 前半21分にGKパリュウカの退場にともない
 サッキ監督は第2GKマルケジャーニとバッジョを交代
 わずか20分たらずでピッチを去る
 後半には、守備の要バレーシ゛も怪我で負傷交代し満身創痍ながらも
 ディノ・バッジョのゴールで辛くも勝利を収める
 
H13年5月21日・追加
 バッジョは、サッキ監督に交代させられたとき、「こいつ狂っている」と叫んだ
 「それは、彼の戦術に対してでなく前日に
 2人で話し合った事と違う事をサッキ監督が行ったため
 その内容は、サッキ監督と私だけの秘密。 交代させられた事に
 怒って言ったのではない
 サッキ監督の、戦術には 100% 納得しています」
 
 6月28日
 第3戦 イタリアVSメキシコ ( 1-1 )
 イタリアはグループ・リーグ3位となり自力で
 決勝トーナメント進出の道は断たれたが 
 ロシアがカメルーンに圧勝したため「ラッキー・ルーザー(幸運な敗者)」として
 決勝トーナメントへ進出する
 この1戦を観たユヴェントスのオーナーであるジャンニ・アリエリ氏はバッジョを
 「びしょぬれの、うさぎのようだ」と酷評した
 決勝トーナメントを前に結果を出せないバッジョへの批判は高まる一方であった
 しかしバッジョはイタリアのTVのインタヴューで
 「いくら批判があっても自分は自分です
 スーパースターと言われても人間です
 誉められてもけなされても自分は自分らしく闘います」と毅然と答える
 7月5日
 決勝トーナメント 1回戦 イタリアVSナイジェリア ( 2-1 )
 バッジョの2ゴールで逃げきる
 敗戦まじかの89分に奇跡的な同点ゴールを決め
 延長101分に自身が演出した
 攻撃でPKをもぎとり、自ら決めて逆転した
 バッジョのアズーリでのゴールは昨年9月以来10試合振りであった
 バッジョは試合中祈りに祈りぬいての大逆転勝利であった
 
H13年5月21日・追加
 試合当日は、想像を越える暑さであった
 110%の湿気の中、TV中継のためにゲ―ムは、真昼間に行われた
 そして、それまでの移動距離の多さ
 更に、常にあらゆることで、完璧な対応を求められた
 練習・ピッチ外・監督・ファン報道陣、全て100%の対応が求められた
 いつも背中に視線を感じながらの日々、まさに"死の行軍"でした
 緊張感は極限に達しており、そのような生活が2ヶ月半続きました・・。
 当然、それまで各リ―グ戦・カップ戦・W杯予選と、くたくたになって
 闘いながらの1年で、そのままアズ―リの合宿に
 参加するという状態でした
 そして、アメリカ大陸への移動、日陰でも40度の暑さ
 周囲のプレッシャ―。 決勝戦前に6時間のフライト更に、新しい時差
 しかも体調は悪い。 そんな仲、嬉しかったのは"自分のゴ―ルが
 イタリア人を幸せにしていると思えたこと"ですね
                                   
 7月9日
 準々決勝 イタリアVSスペイン ( 2-1 )   
 88分にシニョーリからのパスを受け逆転となる鮮やかなゴールを決める
 7月13日 
 準決勝 イタリアVSブルガリア ( 2-1 )
 21分・26分と素晴らしいゴールで
 イタリアを決勝へと導くも、70分に足が限界となりシニョーリと交代し
 イタリアは不安を抱えたまま決勝戦で宿敵ブラジルと闘う
 7月17日
 1994アメリカ World Cup 決勝 ブラジルVSイタリア 0-0 ( 3-2 PK ) 
 ロサンゼルス - ロース゛・ボール
 バッジョは膝・アキレス腱の痛みとブルガリア戦での太ももの軽い肉離れという
 満身創痍の状態で決勝の舞台に立つ
 また、バレージも手術を乗り越えここに立つ
 バッジョは渾身のプレーで闘うも
 試合は延長でも決着がつかず史上初のPK戦へ
 イタリアは、バレーシ゛・マッサーロと失敗し
 バッジョは多大なプレッシャーの中、5人目としボールを蹴るが
 決められず準優勝に終わる
 H13年5月21日・追加
 「W杯の決勝は、全て特別なものです。 それまでの4年間に死ぬほど欲しい
 W杯であろうと、どれだけ犠牲を払おうと
 "W杯を持って帰ろうとは言えなかった" PK は、いつもと同じようにコ―スを
 決めていた、 でも外れました」 ボ―ルが外れた時の印象を聞かれて
 冗談交じりに、"まだ、あのショックから立ち直ってないんだ"と答える
 '94年W杯とは ?? との質問に
 「幸せに満ちた瞬間から、恐ろしいまでの挫折感への急降下」
 「人生そのもの」 と答える。 そして・・。
 「人生には、歓び・悲しみ、いい時も悪いときもある
 その人生の波にのまれないパワ―が必要なんです」
 バッジョは、そのパワ―を創価学会の信仰に見出した
 後日バッジョは、イタリアに帰国後、イタリアの一般新聞のインタヴューに答え
 「自身のW杯の闘いと日蓮大聖人の仏教と池田SGI会長への思いを語った」
 その記事は一面トップでイタリア中に大々的に報じられた
 11月27日
 '94-95シーズン 第11節 パト゜ヴァVSユヴェントス戦で
 相手DFのローザと接触
 そのまま退場し「右膝半月板損傷」で、その後80日間プレーから遠ざかる
 12月5日
 ジェノバ・ダービー   サンプドリアVSジェノアで
 三浦和良選手・日本人初のセリエA初ゴールを決める
 ユヴェントスVSフィオレンティーナ戦でデルピエーロが芸術的な逆転ゴールで
 チームを勝利へと導く
 バッジョが不在でもデルピエ―ロがいるとユヴェンティーノは歓喜する
 1995年3月5日 - 28歳
 第22節 イタリア・ダービー ユベントスVSインテル戦で
 16番をつけてベンチ入りする
 3月12日
 23節 ユヴェントスVSフォジア戦で約3ヶ月半ぶりにピッチに立つ
 フリーキックでゴールを決め勝利に貢献し、存在感をただちに示す
 4月18日
 UEFA杯 準決勝 第2戦 ボルシア・ドルトムントVSユヴェントス戦 アウェーで
 ジーコばりのフリーキックを決めチームを決勝へと導く
 5月3日・17日
 UEFA杯決勝 第1戦・第2戦の合計でパルマに敗れる
 5月21日
 セリエA32節 ユヴェントスVSパルマ ( 4-0 )  
 3アシストで自身初のスクデットを獲得する
 バッジョは、セリエAで初の優勝を勝ち取ったが
 自身の契約は延長されないままであった
 5月29日
 インテルのマッシモ・モラッティ会長が(ユヴェントスのオーナー) アニエリ氏は
 「バッジョの放出を決意した」と発言しバッジョの獲得に乗り出す事を発表する
 6月1日
 バッジョ「ユヴェントスの役員は私を売る事で金を得ることを選んだ
 こんな恥知らずの行動は信じられない」とコメントし
 自分に無断でチームが進めていたインテルへの入団を拒否する
 6月4日
 リーク゛戦最終日 バッジョはこの日プレーせずスタジアムにも姿を現さなかった
 6月9日
 ユヴェントスは正式にバッジョの移籍の可能性を発表する
 210億リラ払うチームならバッジョは好きなチームに行けると
 6月12日
 バッジョ「ユヴェントスは11ヶ月の間、私に何も言って来なかった
 だから、私は契約が更新出来るものとばかり思っていた
 彼らのやり方は私をひどく傷つけた。 皆私を金の亡者のように言うけれど
 お金のためだったらとっくに日本に行ってプレーしているよ」と発言する
 ユヴェントスのサポーターの一部はバッジョが
 金のためにチームを出ると非難する
 6月14日
 コッパ・イタリア決勝 パルマをやぶり優勝するがバッジョは出場せず
 6月15日 
 バッジョ アルゼンチンへバカンスに出発
 6月17日
 新聞に「バッジョ日本へ」の見出しが出る
 7月1日
 数百人のユヴェンティーノがチームのオフィス前でバッジョ移籍を抗議する
 7月3日
 バッジョ帰国「まず、ユヴェントスと話し合いをする」とコメント
 7月4日
 ユヴェントスとA.Cミランが事業提携を発表する
 イタリア市場の55%を占める2つのビッグ・クラブの
 事業提携で一部にはこれで
 バッジョの移籍先はミランに決まったと観測がながれる
 ( 後日、これを受けてインテルを中心とした他チームが事業提携を発表する ) 
 7月5日 午後3時31分
 バッジョ A.Cミランへの移籍を発表する
 「今までの人生の中でいちばんハードな日々だった」とコメントする
 移籍金190億リラ